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オーロラ旅行(3)

 (2009年2月15日作成)

モーリストンプソン・カルチュアル&ビジターセンター

051.jpg 朝の景色

 ホテルの窓から見た朝の景色で,雪の量は多くないが溶けないので,降ったままトウヒにも積もっている.降る雪は本当の粉雪である.
 札幌はなんと暖かいところだろうと思う.

 1月30日,午前9時50分に起きる.曇で小雪がちらついている.朝食はトラディッショナル・ブレックファーストにする.目玉焼き,ベーコン,ポテトそれに紅茶とリンゴジュースを頼んだ.イギリスの朝食にそっくりである.ツアーで申し込んだヴァウチャー(voucher) での朝食は4つの中から選ぶようになっていて,日本語が併記されたメニューをくれる.チップは要らない.

 12時40分にホテルを出てバスでダウンタウンにあるビジターセンターに向かう.チェナ川に面したところにあり町の西側にあるホテルからだとダウンタウンの中を通っていくことになる.バスの中でフェアバンクスでの生活を紹介してくれた.アラスカの州鳥は雷鳥,州魚はキングサーモン,人口は68万人で日本人は600人くらいいて,アンカレッジに400人,フェアバンクスに100人,その他の地域,例えばアリューシャン列島の島などを含めて100人だという.

 アラスカへはロシアのヴィータス・ベーリング(1681-1741)が1741年にアラスカ湾のカヤック島に初めて上陸したが,ベーリングは帰る途中でなくなった.ベーリング一行の船乗りたちがラッコの毛皮を持って帰ったことでその後ラッコ猟の人たちがアラスカへと渡った.1867年3月30日にアメリカがロシアから7百20万ドルでアラスカを買った.それでも,今もアラスカにはロシア文化の名残がありロシア人の血を引く人たちがいる.

 1901年にバーネットがタナナ川を遡ってチェナ川に入り船が動けなくなってキャンプを張った場所がフェアバンクスであった. フェアバンクスという地名は1902年にバーネットが提案して採用された.町の地名はチャールス・ヴァレン・フェアバンクスにちなんで付けられた.フェアバンクスは当時インディアナ州の上院議員で後に副大統領になる.
 1896年にユーコン川のカナダ領にあるドーソンで金が見つかり,1898年クロンダイクのゴールドラッシュが始まった.
 州都ジュノーの北約100kmにあるスキャグウェイからドーソンまでクロンダイクハイウェイがある.このスキャグウェイがゴールドラッシュの時にユーコン川上流へ行く拠点の町となった.

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 1904年当時のフェアバンクス

 チェナ川に沿って発生したフェアバンクスの町である.この頃から活気にあふれる町であった.(Dermot Cole,2006,Historic Fairbanks:An Illustrated History)

ウォルター・ニューマン氏の講演

 午後1時にカルチャーセンターの到着して講堂にはいる.ここでも福田正巳氏が司会をしてエスキモーの一種族であるイヌピアック・エスキモー(Inupiaq Eskimo)のウォルター・ニューマンさんを紹介した.彼は,現在もユーコン川に-面したビーバーで生活している.アラスカ物語の主人公であるフランク安田(1868-1959:安田恭輔)を知る数少ない人である.福田氏が用意したパワーポイントを使ってウォルターが説明を始めた.

 北極海に面したポイントバローで食料となる海獣や魚が捕れなくなったためユーコン河のビーバーに一族みんなで引っ越すことを決めブルックス山脈(標高2,700m)を越え,チャンダラー川を下ってビーバーに移住した.この移住には2年間かかった.10Km移動しては迎えに引き返すと言うことを繰り返した.ポイントバローとビーバーの間を6回往復し全員を移住させた.このビーバーはアサバスカンインディアンの領域であったがフランク安田はインディアンとも交易を行い,彼らを助けたので非常に信頼が厚かった.ビーバーでは鮭や鹿,カリブーなどを食料として生活できた.太平洋戦争中は強制収容所に入れられた.フランク安田はイヌピアック・エスキモーのネビロと結婚した.フランク安田は1958年1月12日に90才で,ネビロは1966年1月25日に96才でなくなった.

 パワーポイントでは1903年頃のクジラ捕りと様子やクジラ祭りでネビロがブランケット・トスで飛んでいる写真,フランクとネビロのや1955年頃のフランク,ネビロ,子供のハナ,ハナの子供のシャーリーが一緒に写っている写真が紹介された.

 ウォルターは講堂一杯の日本人を見てとても興奮していると言った.髪の色が黒いので同胞だと感じるという.日本語の「ありがとう」はイヌピアック語では「アリガ」と言うという.非常に親近感を持ったようである.

052.jpg カルチャーセンターの入口

 チェナ川の辺に建つきれいな建物である.ホールや作業場があり全体に明るい雰囲気である.
 売店もあり地質関係の本を置いている.

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 ウォルター・ニューマン氏の講演

 写真はフランク・安田.暗くて分からないが右にウォルター・フランク氏と福田正巳氏が並んで立っている.

 ウォルター・ニューマン 氏

 いつもにこにこしている気さくなおじいさんである.胸に「フランク・安田」の文字が見える.
 講演が終わったあと,ロビーでいろいろな話を聞いた.

 フランク安田は1868年,石巻生まれで15才の時に母と父を亡くし兄弟とも別れて一人で生きることになり,三菱汽船の給仕から外国航路の見習い船員となった.サンフランシスコで働いたあと22才で米国沿岸警備船ベアー号のキャビンボーイとなる.氷に閉じこめられたベアー号を救うためにポイントバローのエスキモーに助けを求めに言ったのが現地民との接触の始まりであった.ベアー号が無事脱出したあともフランクはポイントバローに残りネビロと結婚してエスキモーたちの指導者となっていく.ポイントバローでの食糧不足は密漁船による乱獲であった.フランクは鉱山師トム・カーターとブルックス山脈を越えてシャンダラー河流域に入り,そこで砂金を発見した.トムが鉱山経営を始めその資金援助を得てフランクはポイントバローからビーバーへの民族移動を実現させた.(アラスカ物語の解説より,尾崎秀樹)

 新田次郎の「アラスカ物語」には「アラスカ取材紀行」が付いている.著者は1973年6月15日に日本を発ち,初めは団体旅行でその後は一人で取材旅行を行った.バローにもビーバー村にも行っている.そして,フェアバンクス南方約200マイルのカッパーセンターで小学校の先生をしているフランク安田の娘ハナに会って話を聞いている.
 また,ビーバー村ではニューマンに会っている.このニューマンは1911年に父に連れられてビーバー村に来たという.年齢からしてウォルター・ニューマン氏の父のトルーク・ニューマン氏であろう.
 この取材紀行の中には「アラスカ大学に世界一のオーロラの権威赤祖父俊一博士がいた。彼は四十歳を越えたばかりで多くの研究者を使い情熱的にオーロラの研究を続けていた。」と赤祖父氏が登場する.新田氏は赤祖父氏からオーロラの映像を見せて貰いその印象を必死にノートに記した.
 新田氏はアラスカでの取材旅行から帰って直ぐ,フランク安田の郷里,石巻にも行っている.そこで,フランクの姪に当たる北田時子さんに会って話を聞いている.フランク安田が非常に気性の激しい人であったというこの件も大変面白い.

 このあと,アサバスカンインディアンのおじいさん,おばあさんと孫二人による踊りが披露された.太鼓を叩きながら歌い踊るというもので,孫の一人は2才くらいで人気をさらっていた.

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 アサバスカン・インディアンの人たち

 左から女の子の孫,おばあさん,男の子の孫,おじいさん,通訳である.

 踊り

 太鼓を持ったおじいさんが一生懸命小さい孫を励まして踊る.

 センターのロビーでアサバスカンインディアンに人たちと交流した.妻はウォルターに移動の時に犠牲者は出なかったのかと聞いていた.慎重に移動したのでほとんど犠牲者はなかったという返事だった.

 工芸品を買ってダウンタウンに買い物に出かけた.外はもう夕方でひどく寒い.車はライトをつけて走っておりタイヤの音がギシギシとする.お土産は自分用にムースの絵が付いたタイタックを買った.24ドルである.

 センターのやや下流のチェナ川の辺に第二次世界大戦アラスカ-シベリア貸借空路(WWII Alaska-Siberia Lend Lease Airway)1942-1945 という記念碑があった.シアトルのやや東のグレートフォールからカナダを通りフェアバンクス,ノームを経由してベーリング海峡を渡ってシベリアのウェルカル,アナディルを通ってヤクーツクからクラスノヤルスクへ至る航空路である.クラスノヤルスクからヨーロッパの前線に物資を届けていた記念碑である.この記念碑の近くにチェナ川に架かる歩道専用の橋がある.裁判所の建物は総ガラス張りの立派な建物で非常に目立つ.

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 フェアバンクスのダウンタウン

 午後3時過ぎであるが車は皆ライトを点けている.タイヤの音がギシギシとし排気ガスが白く舞う.

 チェナ川

 それほど大きな川ではない.歩道専用橋から眺める.

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 アラスカ−シベリアのモニュメント

 アメリカ,ロシア,アラスカの旗が掲げられている.二人の兵士の後ろは飛行機のプロペラである.

モニュメントの裏の地図

 アメリカのグレートフォールからロシアのクラスノヤルスクまでの中継基地と航路が描かれている.

 寒さに震えながらカルチャーセンターにまた戻る.このセンターで地質の本やアラスカの解説書を買う.

 Nancy Warren Ferrell,2007,Alaska a land in motion.
 Mchael Collier,2007,Geology of Denali National Park & Preserve. Alaska Geographic Association.
 Cathy Conner,Daniel O'Haire,1998,Roadside Geology of Alaska.Mountain Press Pubrishing Co.
 U.S.Geological Surbey,2000,A Geologic Guide to Wrangell-Saint Elias Nationl Park and Preserve,Alaska.

 Roadside Geology of Alaska によるとフェアバンクス付近はプレカンブリアン後期から古生代の変成岩類が分布している.タナナ川の南には広大な洪積世の表層堆積物が分布している.

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 フェアバンクス東方の地質図
 フェバンクスの東にはプレカンブリアンから前期古生代の変成岩類が広く分布している.フェアバンクスからチェナ川に沿ってやや新しい古生代の変成岩類が分布し,そこに白亜紀から第三紀の花崗岩類が貫入している.
 この花崗岩類がアラスカ内陸の温泉(チェナ,サークルなど)の熱源になっていると考えられる.
 北西から南東に分布する Hot Springs Fault の東には,ユーコン川沿いに広大な新期堆積物が分布している.
 (C.Conner,D.O'Haire,1998,Roadside Geology of Alaska.210p)

(つづく)

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