岡﨑文吉の足跡をたどる旅
ー石狩川と流水の科学者ー

 (2009年10月22日作成/2014年9月7日修正)

 2009年10月15日に土木学会の主催で岡崎文吉(おかざき・ぶんきち)の足跡をたどる1日ツアーが開かれました.  創成川河畔のポプラ並木,花畔銭函間運河,茨戸川の生振11号樋門,茨戸公園の岡崎ブロック,ガトーキングダムでの昼食,石狩放水路脇の川の博物館,調査船弁天丸での美登位運河と石狩川,生振捷水路,雁来排水機場というコースでした.かなり盛りだくさんですが,バスでの移動で時間的には余裕のあるツアーでした.


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創成川ポプラ並木

 札幌テレビ塔前の中央バスターミナルを出発して石狩街道を北に向かい,まず,創成川河畔を散歩しました.ここにはポプラの並木が右岸に椊えられていて,今では木の大きさといい,並木の長さといい,北大のポプラ並木よりもずっと立派で創成川に影を映し見応えがあります.
 このポプラを運河沿いに椊樹するという計画を立てたのが,岡﨑文吉であったと言います.
 「運河に沿いたる土地は大概砂質にして,開削後両岸の土砂崩かいし,また砂塵を飛ばし河底を埋没するの恐れなきにもあらざれども,時々,その浚渫を行い且つ沿岸に防風林を設くる時,運河を維持するには,はなはだしき困難なかるべし.《(北海タイムス,1895(明治28)年5月9日)と述べています.

 案内してくれた原口征人氏(北海道開発技術センター),今 尚之氏(北海道教育大学札幌校)が選んだ場所は,篠路1条1丁目の北4番橋から同2条1丁目(横新道)の横新道橋までの約600m の区間です.

 創成川は1866(慶応2)年に現在の二条市場付近から JR 函館本線付近まで直線で伸び,そこから北東に向きを変え,北13条東16丁目の大友公園でフシコサッポロ川(今の伏籠川に相当する)に繋がっていました.この水路は工事を行った大友亀太郎氏に因んで「大友堀《と呼ばれました.
 1870(明治3)年に上流側の吉田堀で豊平川の分岐流路とつながり,同時に下流側も寺尾堀が北49条東2丁目付近で旧琴似川につながりました.
 学園都市線付近から北は1986(明治19)年に現在の茨戸公園付近まで(当時は篠路太)琴似新川が開削されました.
 古老の話では,この運河を使って荷物を運んだが綱を引くための両岸の道が悪くかなり苦労し,融雪期には流木が溜まって流れがひどく悪くなるという状態であったと言います.もっとも,琴似新川開削の大きな目的は排水によって低湿地を農耕地化することでした.

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 図1 創成川と大友堀

 開拓使本庁付近から北北西に延びて発寒川に合流しているのが今の創成川(水色)である.赤い流路が大友堀で,伏籠川から南二条付近へ荷物を運んだ.
 琴似新川が今回見学したポプラ並木のある創成川である.

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 写真1 創成川ポプラ並木 写真2 創成川に映るポプラ並木
 北4番橋付近から上流を見る.創成川(当時の琴似新川)の向こうにうっすらと 藻岩山が見える.このように山を目指して構造物を造るのを「山当て《と言う.その都市にとって象徴的な山が選ばれる.  篠路2条(屯田9条)付近である.この付近では水の流れは緩やかである.

花畔銭函間運河

 国道231号(石狩街道)の蒼風橋を渡った信号を左に曲がりしばらく行くと,右側に石狩市民図書館があります.その手前を入り裏に回ると茨戸川から出る花畔(ばんなぐろ)銭函間運河跡があり,周辺は公園となっていて,その一角に記念碑がある.公園となっている場所は,1910(明治43)年に石狩川治水事務所花畔工場が設置され,岡﨑式単床ブロックの製作を行ったところです.記念碑の横にその説明版も設置されています.

 1892(明治24)年に北垣國道(きたがき・くにみち)が第4代北海道長官になり,翌年「十二年計画《を提出し,その中で排水用水路の整備を提案しています.この計画の一部として「札幌茨戸間運河《,「花畔(ばんなぐろ)銭函間運河《,「幌向運河《,「馬追運河《が開削され,四大運河と呼ばれました.
 このうち花畔銭函運河は花畔1条で茨戸川につながり,花畔本通り,樽川を通って新川を横断して銭函駅の近くの海岸に達するものです.この運河の設計を担当したのが岡崎文吉だと言われています.運河は1895(明治28)年に着工し1897(明治30)年に開通しました.
 この運河には花畔に1箇所,銭函付近に2箇所の閘門が設置され水位調節を行いました.水位の上げ下げには1箇所あたり1時間を要したそうです.それでも,1901(明治34)年7月から11月の期間に船数947,貨物33,294(個)が運航した記録が残っています(北海タイムス,1901(明治34)年12月14日).

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 写真3 花畔銭函間運河と茨戸川 写真4 花畔銭函間運河記念碑 
 手前の直線の小川が花畔銭函間運河の吊残である.

okazaki5.jpg 写真5 岡﨑式コンクリート単床ブロックの説明版
 下の図にはブロック工場での資材や型枠の配置が描かれている.

石狩川護岸工事起点の碑

 石狩市下水処理場の向かいの茨戸川河畔に石狩川護岸工事起点の碑が建っています.この碑そのものは1992(平成4)年に建てられたものですが,1916(大正5)年に建てられた元々の碑が保存されています.
 近くの茨戸川河岸では岡崎式単床ブロックを見ることができます.

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 写真6 石狩川護岸工事起点の碑全景 写真7 大正4年に建てられた碑(左側)

okzaki8.jpg 写真8 工事起点の碑近くにある 岡﨑式単床ブロック
 この日は水位が高く,ほとんど水没していたが,普段は水面から出ていてよく見えるそうである.このブロックはやや幅が広いように見える.

茨戸公園の岡﨑式単床ブロック

 茨戸公園は旧石狩川である茨戸川の左岸にある公園です.この付近で発寒川,創成川,伏籠川,篠路川が茨戸川(旧石狩川)と合流しています.縄文時代の海岸砂丘である紅葉山砂丘列を茨戸川が横切って流下していた場所です.発寒川は,手稲山の麓から紅葉山砂丘に沿って延々と東北東に流れてきていました.
 この付近の河岸では,岡﨑式単床ブロックがその機能を発揮しているのを見ることができます.岡﨑式単床ブロックの利点は,1)比較的廉価である,2)強靱で耐久性が高い,3)柔軟性に富んでいて河床変動に追随できる適応性を持っている,4)急勾配斜面に敷設しても安定している,5)河川の流れへの抵抗が少なく断面を阻害しない,6)組み立てが簡単で施工が容易である,と言ったことです.
 夕張川で試験施工され,1910(明治43)年から1916(大正5)年までの7年間で茨戸川の護岸に約5.8km(約126万個)施工されました.また,生振捷水路(おやふる・しょうすいろ)の護岸にも使用されました.

 なお,「捷水路《というのは,「蛇行する河川の屈曲部を直線的に連絡するために開削した人工水路。《(大辞泉)です.ショートカットのことです.

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 写真9 岡﨑式単床ブロック 写真10 岡﨑式単床ブロック近景
 柳の木の下に見えるのがブロックで,変形しているが護岸の役割を果たしている.  折尺は縦方向が80cm,横方向が20cm である.

岡﨑文吉の略歴と治水思想

 岡﨑文吉は1872(明治5)年11月15日に岡山市で生まれました.1891(明治24:20歳)年11月に札幌農学校工学科を卒業し,1893(明治26:22歳)に北海道庁から札幌農学校助教授に任命されました.
 1895(明治28:24歳)年に花畔銭函間運河,札幌茨戸間運河の設計を行い新聞に発表し,翌年北海道庁技師となります.1904(明治37)年7月10日の石狩川大洪水の時に,対雁で最大洪水流量が毎秒30万立方尺(毎秒8,350m3)であることを把握します.石狩川治水工事が本格的に開始された1910(明治43)年に石狩川治水事務所の所長に就任します.1918(大正7)年北海道庁土木部河川課長となり,その後はアメリカ,中国などに赴き,1929(昭和4:58歳)年に官職を辞しました.1945(昭和20:74歳)年2月4日,茅ヶ崎で逝去しました.

 岡﨑文吉の治水哲学は,自身が「自然主義《と言っているように自然の蛇行河川の特性を保護し,かつ応用しようとすることでした.石狩川下流の治水計画でも,当初は蛇行河川をそのまま残し洪水時のみ直線的につないだ2本の放水路を利用するというものでした.しかし,1917(大正6)年の「石狩川治水事業施工報文《では本川そのものを捷水路で短縮するという方式に変更しています.

川の博物館と運河橋

 国道231号を石狩浜に向かう途中で石狩放水路脇に建てられた2基の風車が左手に見えてきます.その手前右側に茶色い建物の川の博物館があります.ここには石狩川調査船艇庫もあります.また,茨戸川が石狩川に合流する志美(しび)運河に架かっていた運河橋の鋼板桁が展示されています.
 古い地形図を見ると志美運河は石狩川の蛇行の吊残の旧河川にほぼ一致しています.洪水時には石狩放水路を使って水を流しますが,通常は志美運河のみが本川との連絡水路となっています.また,茨戸川は札幌大橋の下流から志美運河を通して石狩川に合流していて,志美運河から石狩川側は真勳別川(2.1km)となっています.

 茨戸川の水の流れは平常時は発寒川・創成川・伏籠川から流れ込んだ水が志美運河を通って石狩川本流に流れていきます.ところが,洪水時には石狩川の水が志美運河を通って逆流してくるために発寒川などの支流まで水位が上昇していました.これを防ぐために石狩放水路を掘削し,志美運河と石狩川の間に運河水門を設け逆流を防止するようにしました.この結果,洪水時には茨戸川・真勳別川の水は石狩放水路を通って日本海に流れ出します.
 発寒川などが合流している茨戸公園付近から上流ではどうしても水が停滞します.そのため,現在札幌大橋(国道337号)直下流から石狩川の水を茨戸川に流す工事が進行中です.

 石狩河口橋(いしかり・かこうきょう)は1972(昭和47)年に開通し二期工事を経て1976(昭和51)年に完成した三径間連続斜張橋です.橋長は約1,412.7mで,主塔の基礎工として鋼管矢板セル型ウェルを採用しました.

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 写真11 運河橋の鋼板桁の前の置かれた岡﨑式単床ブロック
 1922(大正11)年頃敷設されたもので長辺60cm,短編15cm,厚さ9cm である. 札幌大橋下流の KP13.0〜13.5km 地点(美登位)の工事で1997年に撤去されたものである.

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 写真12 運河橋鋼板桁 写真13 石狩放水路
 この橋はリベットを全く使っていない鋼板桁橋で,竣工したのは1936(昭和11)年,全国で2番目に古い全溶接橋である.運河水門の工事の際に障害となるため1981(昭和56)年に撤去された.  木々の間をまっすぐに伸びている水路.洪水時に茨戸川から石狩湾に放水するためのもので通常は閉じられている.

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 写真14 志美運河水門 写真15 川から見た石狩河口橋
 川の博物館の船で,茨戸川から志美運河を通り石狩川本流へ出た.得がたい経験であった.  この主塔は右岸側のものである.桁の横に付いているのは風を制御するためのプラスチック製フレアリング(flaring) で,最初は連続で付いていたが,風速22m/sec で振動が発生したため,一つおきに外して振動を止めることに成功した.1940年11月7日にアメリカ・ワシントン州のタコマ橋が風速19m/sec の風でねじれ振動が発生し落橋したのが教訓となった.

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 写真16 生振捷水路手前の石狩川と手稲山
 この付近がもっとも川幅が広く約600m ある.生振捷水路の掘削土砂量は943万 m3でエクスカベーションと呼ばれる機械で掘削した

雁来排水機場

 石狩川は幾たびか洪水で周辺に甚大な被害を与えています.

1898(明治31)年洪水
 北海道の開拓が進み低地にも人が住むようになりました.この当時の北海道の人口は 約85万人でした.この年9月6日から8日まで,札幌で158mmの降雨を記録しました.石狩川流域では死者112人,田畑の被災は全道の70%以上を占めました.

1904(明治37)年洪水
 流域の平均雨量は164mm で氾濫面積1,300km2,浸水戸数16,000戸でした.
 この洪水時に岡﨑文吉が洪水量を分析し,対雁での計画流量を毎秒30万立方尺(8,500立方米)としました.

 明治期には,このほかに1890(明治23)年,1909(明治42)年,1911(明治44)年に洪水が発生しています.
 また,大正期には1915(大正4)年,1919(大正8)年,1921(大正11)年に洪水が発生しています.

1981(昭和56)年洪水
 この年の8月6日に洪水が発生し,江別市豊幌,札幌市北部の発寒川・創成川などが浸水し,下篠津築堤が溢水破堤しました.この時は3日間で282mmの雨量を観測しました.完成直前の石狩放水路が緊急通水されて効果を発揮しました.

 昭和期の洪水は,1932(昭和7)年,1950(昭和25)年,1961(昭和36)年,1975(昭和50)年に発生しています.
 最近では2001(平成13)年9月に3日間で172mmの降雨がありましたが長沼町で多少の浸水があった程度で,1982(昭和57)年以降,大きな洪水被害は発生していません.

 雁来排水機場は通常時は樋門・排水機場のゲートを開けて雁来新川が集めてきた水を自然流下で石狩川に流しています.洪水時には石狩川に通じる排水機場のゲートを閉めて川を通じて集まってきた水をポンプで押し出して洪水から町を守ります.

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 写真17 雁来排水機場 写真18 排水機場のポンプ
 札幌河川事務所でもっとも大きな排水機場で建物は2棟ある.  奥に2台ある電気で動くものとディーゼルエンジン(手前の青い機体)のポンプとがある.これとは別に緊急用の発電機も備えている.

<参考>

 当日配られた諸資料

 石狩ファイル
(http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/>組織別目次>教育委員会・文化財課>石狩ファイル)

 茨戸川清流ルネッサンス II
(http://www.is.hkd.mlit.go.jp/09kawazukuri/04tiikikyodo/02jigyou/01renaissance/index.html)


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